昔の少女漫画への思いが。
ようこそ、いらっしゃいませ。
さて、前回
三原順先生の「はみだしっ子シリーズ」を何年ぶりかで
読んだことにより、昔の自分の気持ちも思い起こされたことを
記しましたが
今回はもう少し「作品」としてではなく
「はみだしっ子という漫画の世界」として
どう思っていたのか、色々気付きがあったので記します。
本当に大好きだった世界「はみだしっ子」
単行本「はみだしっ子2 夢をごらん」のカバーにある
「作品かいせつ」を一部抜粋すると
”彼女のファンは、人にはあまり知られずに
自分だけのためにあってほしいと願っている”
とあってね
まさにドンピシャ!で
私もそんな思いをもつファンの一人であったのよ
でもね・・・正直
4人の少年たちが成長するにしたがって
次第に難解になるストーリー
その世界でのみ通じるような、独特なセリフ回しのやり取り
小難しい、何やら哲学的なモノローグ・・・
次第に、はじめの頃のような気持ちではなくなってきたと
いま、思うんです。
三原先生が「はみだしっ子」を描かれていたのは
23歳~29歳の間
その漫画をリアルタイムで読んでいた私は当時
11歳~17歳
20代の方が描かれた世界を
10代の私が読み
50代の私が、いま再読しながら振り返ってみるのですが・・・
放浪していたまだ幼い頃の彼らの気持ちは
すごく共感を持っていとおしく感じられていたのに
成長し、養子という枠の中に自ら入っていき
そこで決まった人間関係の中でうまくやっていかなければと
悩み、葛藤する姿に
痛々しいものがあったりも、
切なさを感じたりもするのだけれど
はじめの頃のような「共感」ができにくくなった・・・
主人公たちに「自分の一部をその中から見るような感じ」から
主人公たち一人ひとりの生き方を
「傍から眺めているような感じ」に変わったような・・・
ただ、当時の自分は
「あれだけ好きになったものなのに、
理解できなくなってきたことを認めたくない」
ような気持ちがあったみたい
解らないのにわかっているようなふりをして
いつまでも昔のままの好きでいるようなふりをして
しがみついていたような気がするなぁ
あの頃の自分は
「自分の”好き”でいつづけられるものが欲しかった」
のだろうと思います。
場面緘黙(という言葉も知らない昔)で孤独だったあの頃の
唯一の拠り所を離したくはなかったのです。
「好きである」「ファンである」としながら
しかし”読めずにいた”
はみだしっ子の最終章「つれて行って」
当時単行本はもちろん買ったのですが
あまりちゃんと読んでいないのです。
多分「ちゃんと読んでも理解できないと認めるのが嫌」だと
無意識に思っていたのでは・・・?と。
で、今回50代の自分が、
昔の自分よりは賢くなっているだろうことを
期待しつつじっくり読んでみた
最終章「つれて行って」
さて、読み終わり思うことは・・・
長くなっちゃったので
続きは次回に。
お読みくださりありがとう。それでは、また。
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